東神戸教会
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メッセージ    2014年 1月〜3月のメッセージ  (川上 盾牧師)
1月5日
『 新しく歩み出す人たちへ 』    申命記10:12−22

懸命に「たすき」を受け渡す駅伝は、日本のお正月の風物詩だ。
懸命の力を振り絞って「たすき」を渡した選手たち。大半はその場で倒れ込んでしまう。
自己目的のためではなく、チームのために力を尽くす姿は観る者の感動を誘う。
今年、東神戸教会も牧師交代という、「たすき」受け渡しの節目を迎える。
その年の最初の礼拝で、与えられた聖書の箇所・申命記もまた、受け渡される「たすき」のような書物と言える。

エジプトの奴隷の苦しみから解放され「約束の地」カナンに向かうイスラエル。
新たな土地で新しく歩み出す人たちに向けて、その地で大切に守るべき律法の教えを「再び(申)命じる」。
そんな、モーセからの遺言のようなメッセージが、申命記のほとんどの内容だ。

今日の箇所でモーセが語っていることは、次の2点に集約される。
 @この世界の主人公はあくまで神さまであり、神のみこころに従うところに人間の幸いがある、ということ(12−14節)。
 Aその「神のみこころ」とは、「孤児・寡婦・寄留者」を尊重すること、
  すなわちこの世の最も弱くされた人々を大切に重んじることである(15−20節)。

@について。
個人の尊重を謳う近代社会においては、「あなたの人生の主人公は、あなた自身である。」という言葉は魅力を誘う。私もそんなメッセージを何度も語ってきたし、それ自体は間違いではないと思う。
ただし、「自分の人生の主人公は私だ!」という思いが、そのまま「私がこの世界の主人公なのだ!」となってしまうと、そこに人間のわがまま・かたくなさが生じてしまう。そこは分けて考えないといけない。

Aについて。
神がイスラエルを選び、救われたのは、立派で強い民だったからではなかった。
むしろどの民よりも弱く小さかったが故に、選ばれた(申7:7−8)。
その「神のみこころ」に応える歩みとは何か?
それは自分たちもまた「弱い存在を大切にする共同体」を作ることである。

この二つの基本姿勢に基づいて、新しく歩み出す人たちに「たすき」を手渡す。
それが申命記における、モーセの最後の仕事なのである。



1月19日
『 どんな手を尽くしてでも 』  ルカによる福音書16:1−13

今日の箇所は、イエスのたとえ話の中で最も解釈の難しいもののひとつである。
「不正な管理人のたとえ」との小見出しにもあるように、この物語に出てくる管理人は、大変不正な人物である。

ある金持ちに雇われていた財産管理人。
ところが彼は任されていた金を使い込んでしまっていた。
噂を聞いた主人は彼を呼びつけ、会計報告を出せと命じる。
管理人はうろたえ、横領が発覚すれば職を失うと心配した。
もはや肉体労働はできないし、物乞いをするのも情けない。
そこで彼は一計を講じた。
主人に借財をしている人をみんな呼び寄せ、ひとりひとりの借財を棒引きしてやった。
そうすれば自分が失職した時に、恩義を感じた誰かが迎えてくれるであろう、と。
横領に加えて、公文書偽造。管理人は不正の上塗りをしている訳である。
現代なら重罪だ。ところがイエスは「主人はこの不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた。」と言われるのである。
「エー!なんでー?」私たちは混乱に包まれる。

「イエスは神の子・救い主、正しいお方である。
そのイエスが不正を勧められるはずがない...」そんな私たちの信仰の「常識」が、「このたとえ話は分かりにくい」という判断につながっているのであろう。
しかし忘れてはならないのは、イエスは当時のユダヤ社会においては、相当な「常識破り」の人間であったということだ。

イエスがこのたとえで語っていることは、ある意味ではシンプルなことである。
それは「どんな手を尽くしてでもいいから、仲間を作りなさい」。
他者との友好的な関係、自分が困ったときには助けてくれるような友を、それこそ不正を働いてでもいいから作れということだ。

平常時には「常識」と思えることが、とっさの時にはむしろ共に生きる歩みをかえって阻害する。
そんな事例が緊急時には起こり得る。(被災者のために届けられた毛布を「人数分ないから」と配らなかった、等々)。
「常識」がいつも正しいとは限らない。
イエスは、隣人と共に生きるためならば、しばしば人々の「常識」を突き抜けられた。
今日の箇所もそんなイエスの「突き抜けた」メッセージと受けとめたい。イエスがこだわり続けられた人間の生きる大切な姿勢、それは「どんな手を尽くしてでも隣人と共に生きる」ということなのである。




1月26日
『「いま・ここ」での生き方の変革を 』 ルカによる福音書16:19−26

昨年の流行語大賞のひとつに選ばれた「倍返し!」。
TVドラマで実直な銀行員の主人公が、悪行を重ねる上司たちに向かって言うセリフだ。
その言葉通り、様々な難関を乗り越え、彼が反撃を始め悪い上司を追い詰めるのを見て、多くの人が胸がスカーッとする快感を覚えた...だから流行語となったのであろう。

一方、インターネットの投稿サイトに関わる、いわゆる「オタク」たちの間で、「リア充(「リアル充実系」の略)」という言葉が用いられているという。現実の生活が充実している人々(恋人がおり、友人も多く、就職も決まり等々)に対して、やっかみの思いを込めて用いられるのだそうだ。
「リア充、うぜえ!爆発しろ!」といった感じで...。
現実の世界で「いい思い」をしている人々に対し、それが転覆することを望む心理が少しずつ広がっているのだろうか。

今日の箇所(金持ちとラザロの譬え)は、そんな「倍返し」や「ドンデン返し」を望む人々の心理にピッタリの箇所と言えるかも知れない。
現実の世界でいい思いをした金持ちと、貧しさの極みを生きたラザロ。
しかし死後に「アブラハムの宴席」に招かれたのは、ラザロの方であって金持ちではなかった..。
まさに「天国での倍返し」である。

この譬えを、もしイエスの周りにいた貧しい人々が聞いたなら、手を叩いて喜び、カタルシスを感じたかも知れない。
「この世で苦しむ者は、天国で救われる」...。
しかしこの信仰の論理は、ある意味では現実の矛盾や不平等を克服するどころか、むしろ固定化するものとして作用することもある。

1950年代のアメリカで、黒人差別に反対して運動する人々に向かって、差別をする人々からこんな言葉が投げかけられたという。
「そんなことをして社会を混乱させるのではなく、従順な信仰を保って来世での幸せを祈れ。」
マルクスはそのような信仰のありようを「宗教はアヘンである」と言って批判した。
はたしてイエスは、貧しい人への慰めとしてこの譬えを語ったのか?
そうではない。これはむしろ、金に執着する人々に向けて語られたものである(ルカ<span 16:14)。
イエスは問いかけておられるのだ。
「あなたたちは門の前で苦しむラザロのような人を、無視して生きてこなかったか?」と。
そのような生き方を、死んだ後に改めようとおもっても遅い。変えるなら「いま」なのだ。
つまりこの譬えは「いま・ここ」での生き方の変革を促すものなのだ。
ルカ福音書に記されるイエスは、金持ちに対して大変厳しいイメージで描かれている。
はたして、金持ちであること(リア充)が「悪いこと」だと言うのだろうか?
そうではないが、財産を持ちそれを維持しようとする心は、隣人への無関心を生み出しやすい、ということが言えるだろう。

どうしてそうなるのか?
手に入れたものを「自分の力で得た」と思い上がるからである。
そうでなく「神の恵みによって与えられた」と感謝して受けとめる。
そうすれば自ずと分かち合いの心が生まれてくるであろう。
たくさん得たものは、たくさん施していけばよい。
自分にとって必要なものを取り置いた後には、それをできるだけ「ラザロ」と分かち合う...。
そんな「いま・ここ」での生き方の変革を、イエスは呼びかけておられる。




2月2日
『 歌に導かれて 』   申命記31:16−22

申命記は、「約束の地」カナンにおいて新しい歩みを始めるイスラエルの民に向けてのモーセの遺言のような書物である。
自らは民と共に進んで行けないモーセ。
その時点でモーセが人々に向けて行なった三つのことがある。

ひとつ目は「律法の再授与」。
新たな地で歩む上で大切にすべき律法の教えを「申(ふたたび)命じた」言葉、それが申命記の大半の内容である。
モーセはそれを言葉で語り伝えるだけでなく、書き記して7年に一度朗読することを命じた(31章)
常に回帰すべき原点を指示したのである。

二つ目のこと、それは後継の任命である。
ある人物の後継者を選ぶに際して、現代では民主的に選ばれることも多くなっている。
しかし昔からある集団のエートスを引き継ぐ人間を決める方法としてしばしば用いられてきたのが「後継者指名」というものである。
芸能や道場(時にウラ社会...)といったところでは現代でもそれが主流である。
そうして任命されたのがヌンの子・ヨシュアである。

ヨシュアの任命に当たって繰り返される言葉がある。
「強く、また雄々しくあれ!」。
男性中心的(マッチョ)な言葉として、近年では批判も多い言葉だ。
確かにすべての局面において「強くあらねばならない」わけではない。
人間には弱い時があるのが当たり前。弱い時があってもいいのである。
何より「強い=雄々しい」「弱い=女々しい」という決めつけがナンセンスであろう。
しかし人生には勇気をもって臨まねばならない時もある。
今、イスラエルはその時を迎えている、ということだと思う。

三つ目にモーセがしたこと。それは歌を残すことであった。
民が繰り返し歌い、歌うごとに自分たちの姿を振り返り、過ちへの気付きを促し、新しく歩む志を呼び覚ましてくれる歌。
そんな歌をモーセは残したのだ。

歌は、言葉や文字で伝えるのとは少し違う形で、人々にメッセージを送ることができる。
優れた歌は、たった3分で1時間の講演に匹敵する作用を人の心に与えることができる。
そんな歌に導かれて、民が新しい歩むことをモーセは願ったのだ。
そうして作られた歌が32章に残されている。

この箇所を読みながら、キング牧師の説教の言葉を思い出した。

 「もし私の最期が来たら、長い葬式はいらない。
  その日、こう話してほしい。
 “マルティン・ルーサー・キング・ジュニアは、生涯ひとに仕えた”と。 
 “マルティン・ルーサー・キング・ジュニアは、他者への愛に生きた”と。
  それ以外はつまらぬことだ。
  私は金を残しては逝かない。
  しかし、悔いのない人生だけは残していきたいのだ。
  道の途中で私の言葉や歌が、誰かを助け、元気づけ、正しき道へと導いた時、
  初めて私の生に意義があったと言えるのだ。」

彼もまた、歌に導かれて歩む人々の姿を想像し、そこに希望を見出したのだ。

私も牧師交代という、後を引き継いでくれる人との節目に臨んで様々なことを思う。
私自身は、モーセのように律法を再び命じたり、後継者を指名したりという、あれこれと次の世代にまで指示を出すことに躊躇を感じる人間だ。
去る者はあまり多くを語らず、次の時代の人たちが望む道を探す方がいい...
そんな風に考えるタイプだと自認している。

しかし、歌の力を信じて歩んできた者として、歌を残すことはお許しいただければと思う。

神戸で過ごした日々を数えれば17年。その間にいくつもの歌を作った。
もしもその歌を歌って下さり、そのことで何か新しいことが始まるのだとしたら、私の神戸の 17年間の歩にも少しは意味があったのかな、と思う。

これからも歌の力を信じ、歌に導かれて歩む。
そんな教会であってほしいと心から願っている。



2月9日
『 感謝の表し方 』     ルカによる福音書17:11-19

東京ガスの『お弁当メール』という感動的なCMがある。
思春期を迎え「ありがとう」の言葉も出なくなった息子に向けて毎日せっせとお弁当を作る母親。
でも息子の心の中にあった感謝の思いが最後に表れて、ホロっとさせられる。
毎日のお弁当が用意されていることが「当たり前」だと思えば、感謝の気持ちも芽生えない。
しかし逆に気持ちがあっても、それをすぐさま表すことができない事情もある。
すべての中学生が「当たり前」だと思っているワケではない。
感謝の表し方は人それぞれなのだ。

イエスに「重い皮膚病」を癒された人々の出来事である。
その病気故に町から隔離され、差別的な仕打ちを受けていた人たち。
そんな人がイエスの言葉によって癒される。
しかしイエスのもとに感謝の思いを伝えに行ったのは一人だけ。
しかもそれは、ユダヤ人と近親憎悪的な関係にあったサマリア人だった。

「ユダヤ人よ、どうしたというのだ? イエスの恵みを『当たり前』としてしまってはいないか?」
そんなルカの問いかけが行間から滲み出る。
「福音はまずユダヤ人に伝えられた。
 しかし彼らがそれを拒んだので、広く世界異邦人社会へ向かう」
これはルカ福音書 → 使徒言行録と続くルカの構造でもある。(使徒言行録13:46など)
この記述にもそんな思惑が反映しているのかも知れない。

しかしここで、私の中にいるアマノジャクの虫が頭をもたげる。
「あとの9人が、そろいもそろって傲岸不遜な恩知らずばかりだったのだろうか?タイミングが悪く「すぐさま」感謝には行けなかったが、心の中にその思いを抱いた人は他にもいたのではないか。」そんな風に考えてしまう。
他でもない、自分自身が同じように間の悪い人間だからこそ、そんな風に思うのだ。
雪国では、道路で動けなくなった車を、後続車の運転手たちが押してあげる光景を目にする。
動き出した車のドライバーは、再び止まってはいけないので、進み続けなければならない。
つまりお世話になった人々に、立ち止まって「ありがとう」を言うことが出来ないのだ。けれどもそんな体験を持つと、立場が変わった時に今度は自分が押してあげるひとりになることができる。
そんな風にして、別の車を押してあげながら「あの時」お世話になった人に「ありがとう」を言っているような気分になる。
時と場所と相手をずらして感謝の思いを表わす、そんな「感謝の表し方」もあるのだ。
イエスに「ありがとう」を言えなかった9人の人たち。
しかし彼らがその後の自分の人生の中で、かつてイエスに助けられたように今度は自分が誰かを助ける働きができたならば、彼らはそこでイエスに「ありがとう」と言っていることになるのだと思う。



2月16日
『 しつこく、しつこく、願い続ける 』   ルカによる福音書18:1−8

広大な神社の鎮守の森に立つと、自然という「大いなるもの」に崇敬の念を抱いてきた日本人の宗教心を感じる。
ところが一方では、「どの神社にはどんなご利益があるか」といったとらえ方もなされる。
まるで神々が人間の欲望をかなえるために存在しているかのように。
その主客逆転した信仰のあり方こそ、「偶像崇拝」に他ならない。

今日の箇所にも願い事をささげる、その心のありようが語られている。
このたとえ話でイエスが語ろうとされるメッセージは、とてもシンプルなことである。
「気を落とさず、希望を捨てずに、願いを祈り続けること」。
信仰者の基本のようなことが示される。

しかしそのたとえ話の内容は、とても奇妙なものだ。
登場人物は二人。「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官と、何の後ろ盾も持たないひとりのやもめである。
裁判官は「極悪非道の代官」「冷血無慈悲な判事」といった印象。
一方のやもめ。「孤児・寡婦・寄留者」は、聖書では社会で最も弱い立場の象徴である。

最初はやもめの申し出など歯牙にもかけなかった裁判官だったが、あまりにしつこいので根負けして言うことを聞いてやった、というのである。
「不正な裁判官ですら、願い続ければ言うことを聞いてくれる。
ましてや神さまが聞いてくれないはずがあろうか」とイエスは言われる。
これはどういうことなのだろうか。

イエスが言いたかったことは、こういうことではないかと思う。
「神に祈るということは、何の力もないやもめが、 神を畏れず人を人とも思わない裁判官に向かって陳情を続けるようなものだ。
すぐに、インスタントに願いがかなうことはないかも知れない。
それでも願いをあきらめず、祈り続けることが大切なのだ。」

しつこく願い続けるためには、その願う事柄についての真摯な思いが必要である。
2・3度祈ってかなわなければ「神も仏もない」と言うのでは、結局それだけの願い事でしかなかったということだ。
「念願は人格を決定す。継続はこれ力なり」(住岡夜晃/仏教学者)という言葉がある。
願いがすぐにかなわなくても、しつこく願い続ける。
その願いが人の人格を定めていくのかも知れない。

♪ あきらめきれぬことがあるなら、
  「あきらめきれぬ」とあきらめる
   あきらめきれぬことがあるなら、
   それはきっと“いいこと”だ。

(ザ・ブルーハーツ『泣かないで恋人よ』)



2月23日
『 心の驕りを見つめて 』  ルカによる福音書18:9−14)

始まったら見てしまったオリンピック。冬のオリンピックはミスをする選手が多い。
日本選手の応援に夢中になるあまりに、とてもイヤな思いを抱く自分に気付いた。
日本選手が上位にいる時に、他国の選手の失敗をどこか心待ちにしてしまっているのだ。

「上見て暮らすな、下見て暮らせ。」とは昔からある処世術だ。
自分より下にいる人の存在を知ることによって自分の現状に安堵する心理は誰もが抱くものだろう。
しかしその思いの中から差別的な構造が保持されているのを見る時、そこに人間の罪の現実が如実に表れていると言える。

今日の箇所はそんな人間の歪んだ心理について注意を促し、これを戒めるイエスのメッセージである。
これは「譬え話」、すなわちイエスの創作である。にもかかわらず、このような状況を私たちはリアルに想像できる。
身近にこのようなケースはいくらでも起こり得るからだろう。

神殿にお参りにいった二人の人。
片やファリサイ派の人は自分の生きざまに誇りを持ち、隣にいる徴税人を見下げている。
それに対してこの徴税人は目を上げようともせず「罪人の私をおゆるし下さい」と祈るだけだった。
果たして神に義とされたのはこの徴税人の方であってファリサイ派の人ではなかった、とイエスは語る。

ファリサイ派の人が「不正をしない、贅沢を戒める、多くの献げものをする」
そのことが悪いというのだろうか?そうではない。
それらのことを実行することによって、彼は自分で自分を義としてしまった。
その「自己義認」<span class="GramE">こそが</span>イエスの批判の対象である。
しかし単に自己義認の優越に浸っているだけだったら、さして問題はない。
しかし「自分が正しい」と思い上がる人というのは、返す刀で「自分のようにしない人間は裁かれるべきだ。」と
他者の不幸を願うようになってしまう。それが最大の問題なのだ。
「私はこの徴税人のような人間でないことを感謝します」という言葉は、自らの正しさに酔い他者を切り捨てる、愛を失った冷たい心以外の何ものでもない。
どんな良い業も「愛がなければ一切は無益である。」(コリント第一13章)

一方でこの譬え話を読む私たちにも注意を促したい。
このお話を読んで「自分はこんな高慢な人間ではない。
自分はこんな驕り高ぶる人間でなくてよかった。」― そんな風に思ったとしたら、私たちの心もこのファリサイ派の人と大差はないのではないか。

心の驕りを見つめて日々を歩みたい。




3月2日
『 いろいろ、いろいろあ、あったけど 』  申命記33:1−5,29

対立や行き違いの中にある人同士のあいだに、ふっとそれまでとは違う風が吹く時がある。
「和解」というほどではないが、それぞれの存在を認め小さな祝福を贈るような営み。多くの場合、何かが終わるとき、両者が別れるとき、そして時間の経過の中で、そのような交わりが生まれることがある。

数年前、あの「プロ野球ドラフト事件」で世間を騒がせた江川卓と小林繁が、日本酒のCMで事件以来初めて対談する企画があった。
「あなたもしんどかったでしょう。僕もしんどかったけどね。」
そんな小林繁の言葉が印象的だった。そして最後の彼は言った。
「いろいろあったけど、ま、時間も経ったことだしね...

申命記の最後、モーセがイスラエルの民に向かって最後に語りかける場面である。
主なる神・ヤーウェによって、エジプトの奴隷の状態から解放されたイスラエルの民。
にもかかわらず、これまで旅の間さんざんモーセを悩ませ続けた「わがままな民」である。
彼らが数週間で辿り着ける道のりを40年にわたってさすらうことになったのも、不平不満を抱く人々の存在が理由であった。

あげくの果てにはモーセ自身が、その民の過ちを制御できなかった責任を問われ、約束の地・カナンに入ることが許されなかった。何とも理不尽な神の仕打ちである。

もちろんモーセはそんな民を叱り、語るべきことを語り、後継者を選び、反省をうながす歌の残すのであるが、
最後の最後にしたことは「祝福の言葉」を贈ることであった。
「イスラエル(神の支配)」という名前にちっともふさわしくない人々。
しかしそんなイスラエルのことが、モーセはいとおしくて仕方なかったのではないか。

対立する相手とのあいだに、いつもと違う風が吹く時があるとすれば、それは互いの「弱さ」を感じた時だ。
「強さ」にしがみついていては見えないものが、互いの「弱さ」を感じる時に見えてくる。
「いろいろ、いろいろあったけど、でもお元気で。」そんな風に祝福を贈る心が育まれる。

そして私たちも知るのである。私たち自身こそが「いろいろ、いろいろあったけど、それでも神さまに祝福されている存在である」ということを。




3月9日
『 この人を見よ 』 コリントの信徒への手紙 @ 1:18, 22-25

「神の子」が十字架に架けられて殺される
それはあり得ないこと、あってはならないことだった。
その「愚かな道」を歩んだ人がいる。イエス・キリストこそ、その人である。
世の中に本当に良きものをもたらすためには、時に誰かが苦労や重荷を担わなければならないことがあるのだ。

イエスはその道を避けることもできた
危ない橋は渡らずに、支持者たちに囲まれて充実した人生を歩むこともできた。
しかしそれでは「本当に大切なこと」は実現しない。神の国はやってこない。
それでイエスは、行く手に十字架が待ち受けているにも関わらず、
その道を歩み通されたのである。

辛かったと思う。しんどかったと思う。
ある人たちからは愚かな苦しみに思えたかも知れない。
しかしその苦しみによって「救い」が与えられる ― それが聖書のメッセージである。

北米大陸で開拓以降の歴史の中続けられた、暗黒の奴隷制度。
その苦しみの中から、黒人霊歌、そしてゴスペルの歌声が生まれた。
歌をうたうことが唯一、黒人奴隷たちを支える力だったのだ。

本当なら奴隷制度などない方がよかった。
しかしそれがなかったなら、ゴスペルの歌声も生まれなかったかも知れない。
人間は不本意に負わされた苦しみの中から、人々を救う「美しいもの」を生み出すことができるのだ。

今週、まる3年の3月11日を迎える。
19年前の1月17日を憶える街・神戸に生きる者として、
改めて震災の痛み・苦しみに思いを馳せたい。
「あの苦しみにも意味があった」などと評論家気取りはしたくない。
けれども、不本意に負わされた苦しみにも、その後の日々があった。今もある。
そこに、人々を本当に救いに導く、
手触りの柔らかい温もりのある言葉や交わりが生まれることを信じたい。

2000年前、ひとりの男が一人淋しく十字架の上で命を奪われた。
それは馬鹿げたことだった。愚かなことだった。
しかしその愚かさの中にこそ、神の救いがある ― それが聖書のメッセージだ。
そして聖書は語る。
「この人を見よ!この人を見よ!
この人こそ、人となられた活ける神なのだ!」と。

(ゴスペル礼拝)



3月16日
『 半分は秘密 !? 』  ルカによる福音書19:1−10

引越しの準備に気を取られていて、確定申告をすっかり忘れていた。
何とか期日ぎりぎりに間に合ったが、ちょっとしたトラブルが重なり、面倒くさかった。
納税は国民の義務であるが、税金は決して喜んで払えるものではない。

現代の自由な国ですらそうなのだから、古代の王権社会においては
税を納める人々の心情は決して穏やかではなかったことだろう。
ユダヤ人にとって、ローマ帝国に納める税金は、
異邦人によって無理やり負わされる重荷であり、屈辱や憤りを感じさせるものであった。

ローマ帝国はその税の取り立てを、ローマ人ではなくユダヤ人にさせた。
いつの世もある“分断統治”の手法である。
民衆の鬱積は、ローマ人ではなく、手先として働くユダヤ人に向かう。
誰も好き好んでそんな仕事に就くものはいない。
いろんな事情でやるせなさを感じながらその仕事を行なっていた人々がいた。
そんな切ない気持ちを抱いた人を、イエスは弟子として招かれた(レビ、マタイ)。

ところが今日の箇所に登場するザアカイになると、少々様相が異なる。
彼も内心傷ついていたのかも知れないが、
それを逆に反発に変えて金持ちへの道を登りつめていた。
確信犯的な、居直りに近い威厳を示すような人物だったに違いない。

そんな彼の耳に、イエスが自分の村にやって来られるとの噂が届く。
何とかイエスをひと目見ようとしたザアカイ。
しかし村人は背の低いザアカイにいやがらせをして、見えないように邪魔をした。
そこで彼は木に登ってイエスを見下ろそうとした。

するとイエスは木の下まで来ると、ザアカイを見つめて言われた。
「降りておいで。今日、あなたの家に泊めてもらいたい」。
そんな言葉をかけてもらうことなど、ザアカイの日常には久しくなかったのかも知れない。
彼は喜んでイエスを迎え、そして言った。
「私は財産の半分を貧しい人に施します。
 また不正に取り立てたものは4倍にして返します」...。

「たった半分>!?」そう思うだろうか?
しかしこれはとてつもなく大きな、しかも具体的な約束である。

「献げものや他者への施し、それは金額の多寡が問題ではない。
精一杯の思いで献げることが大切なのだ。」
そんな風に言われれば、それが正解だと言わざるを得ない。
しかし「精一杯...」と言ったとたん、それは抽象的になる。
ザアカイは半分、と言った。旧約聖書は「10分の>1」を目安とした。
献げものに関する具体的な基準。それはそれで大切だと思う。
イエスは「今日救いがこの家を訪れた」と喜ばれた。
ザアカイがたくさんの額を献げたことがうれしかったのではない。
それまで自分のためだけに生きてきた彼が、
隣人のために、隣人と共に生きる者とされていった。
それこそが奇跡であり、救いなのだ。

イエスとの出会いによって、隣人と共に生きる喜びを知ったザアカイ。
ザアカイは財産の半分を施すと言った。
残り半分は? ・・・・ それは秘密。
彼はそれをどう用いたのだろうか?




3月23日
『 同じ夢を見るとき 』 ヨハネによる福音書

誰もが待ち焦がれる春は、日本では別れの季節でもある。
「別れは辛い、切ない」そんな心をもって人間は生きてきた。
しかし“別れ”よりも先にあったものがある。それは“出会い”だ。
別れによって出会いが広がることもある。
“別れ”という形の“出会い”もある。そう思いたい。

童話『星の王子さま』の中で、一匹のキツネと王子との出会いが描かれる。
初めて出会った時は、互いの存在にさほど重みを感じない。
しかし関わりが深まると別れが辛くなる。キツネが言う。
「これから先、金色の麦畑を見る度に、あんたの美しい金髪を思い出すことにするよ」。

何かを見る・聞く度にその人の存在を思い出すそんな想起の仕方がある。
教会の聖餐式もそうだ。「わたしの記念としてこのように行ないなさい」ルカ 弟子たちはパンを食べ、盃を飲むごとに、イエスのことを想い起していった。
「わたしはあなたがたをみなしごにはしない。しばらくすると、あなたがたはわたしを見る」聖餐式でイエスの思い出を想い起す中で、私たちはイエスと再び会えるそういうことなか
確かにそんな経験もあるだろう。
しかし「イエスと共に生きる」とは、単に懐かしさに浸るだけではなく、
もっと他の道のりがあるのではないかと思うのだ。

イエスは言われた。「わたしの掟を守る人には、わたし自身を現す」(21節。
「わたしの掟」とは何か?

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。
これがわたしの掟である」15-12。

すべての人が愛によって結び合い、共に生きる世界。それが「神の国」である。
「神の国」、それはイエスの宣教の目標であり、イエスの夢であった。
その夢を共に見るとき、すなわち私たちが愛を大切にして、
共に生きる世界(神の国)を作る道のりに加わるとき、私たちはイエスと共にいる。
そう言えるのではないだろうか。

「ひとりで見る夢はただの夢に過ぎない。
けれども、みんなで夢を見れば、それは現実になる」(ジョン・レノン)

私たちもイエスと同じ夢を見るとき、イエスと共に生きる者となる。
そしてイエスと同じ夢を見るとき、私たちは離れていても共に生きる者となれるのである。

ありがとう、東神戸教会。
これからもイエスと同じ夢を見て、共に歩んでいきましょう!

(川上 盾牧師、東神戸教会でのラストメッセージ)
  
 
 
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